遺跡に残る地震の履歴
京都新聞の朝刊(H23.4.14)に気になる記事が載っていました。東日本大震災に関して 森 浩一さんに聞く と題して
考古学者森浩一さんは阪神大震災の起きた1995年から、顧問を務める古代学研究会の機関誌「古代学研究」で「地震考古学」を連載している。大地に刻まれた痕跡を通して、地震や津波を歴史的に学ぶ重要性を訴えてきた。今、歴史から何を学べるのか。(河村亮)
古墳の地崩れ跡
「誉田御廟山古墳(伝応神陵)の前方部にものすごい地崩れのあとがある。考古学者はみんな知ってたkれど、何の跡か分からんかった。大山古墳(伝仁徳陵)にも大きな地崩れ跡がある。そこに目を付けたのが産業技術研究所招聘研究員の寒川旭君。84年に地震学会で『応神陵の地崩れは戦国時代の大地震跡』と発表した。地層の下から水を含んだ砂層が一気に吹き上がる『噴砂』の跡が古墳に残ってて、その直径などで地震の規模や間隔、社会への影響が分かる」
古墳は先祖が設置した「巨大な地震計」ともいわれる。「都道府県別に連載してると、地域の地震の履歴書が見えてくる。この地域は平安時代に地震があり、ここは室町の震災とか。寒川君の研究も進んで、今では誉田山が戦国時代の何年に地震があったか分かってる。河内の寺がようけひっくり返った地震や。八幡市の内裏八丁遺跡を掘ったときも無数の噴砂跡が見つかり、文禄最後の年(1596年)、伏見大地震の痕跡やった。噴砂の直径から阪神大震災より大きく、伏見城も被災した。また大宝元(701)年、『丹後風土記逸文』に凡海郷(丹後加佐郡=舞鶴市)で大地震が起きて陸地が海になり、山の先だけ残ったとある。それが冠島。誇張はあるけど、京都でも大きな地震は起きている」
自然に学んだ古代人
縄文人や弥生人は、自然をよく学んでいる。森さんは30年以上前から、明治三陸沖地震の教訓として東北地方では不便でも高台の宿に泊まるという。「以前、北海道の噴火湾や奥尻島の縄文遺跡を踏査したことがある。集落の遺跡は、海岸線の道に沿って発達する現代の集落を見晴らす高台にあった。その後、93年の北海道南西沖地震で大津波があり、現代の集落はやられてしまった。災害後、仮設住宅は遺跡近くに造られ、今もその近くに移る人もあるそうだ。東京などでも海岸近くに貝塚跡があるが、それは魚を干したりする作業場で、定住してるわけやない。便利不便というものさしを基準にしてはいけない。
機械の数値ばかり
森さんは、学問の科学技術追従の姿勢に警鐘を鳴らす。「最近の医者が患者の顔を見ず、検査のデータばかり見るのと同じように、地震学者や気象庁は高価な機械の数字ばかり見て、地面の表情、地域の伝承を知ろうとしない。この震災で、宮城・松島の宮戸島では貞観津波(869年)の際に潮が到達した地点に大きな石が立ってて、村人の言い伝えで『石より高い所へ逃げえ』と高く登ったんで、死者はほとんどなかった。今度の津波で、波が来た目印を各地に立ててほしい。常に目に見えることが大事」
遺跡や古墳、古文書などは地震のみならず、火山や洪水など多様な痕跡をとどめる。先人がいかに災害に立ち向かったか分かる。「天明3(1783)年に浅間山が噴火し、嬬恋村が火砕流にのまれた遺跡がある。母親を背負って逃げていた人が神社の最上段で火砕流に追いつかれて、その骨が発掘されてる。この噴火では死骸が川を下り、江戸・帝釈天境内にまで流れ着いて、今も碑がある。興味深いのは、復興にあたって村の庄屋か誰かが、子をなくした親と親をなくした子で人工の家族をつくらせた記録が残っている。知恵はたくさんある」
森さんは、災害教育の充実を強調する。「子どもだけでなく、それを教える大人、教師を育てなくてはいけない。教員研修期間に学ばせる。命にかかわる問題。歴史に学ぶことはまだ多い」
本文の記事を読んで、その土地に、その時起こったことは言い伝え、伝承、ことわざとして残されている。古文書の中、地方のお伽話、遺跡の中には重要な事柄が一杯ある。
目先の便利さだけを追求していると自然から大きなしっぺがえしが来る。今回の自然災害から我々は大いに学習して次に活かさないといけないと思いました。
文責 三輪
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