文化・芸術

”芸術の秋”

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いよいよ秋本番を迎えてその一番手として、関東組の有志が「院展」を鑑賞してきました。今年で3年目になり13名の参加者になりました。

上野公園を歩いていますと、マイクから流れる大きな声に何だろうと近くに行ってみると、東京藝術大学の「芸祭」が賑やかにやっていました。

各学科毎の綱引きをしていましたので、写真にとってきました。

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午後2時、上野公園内にある東京都美術館に集合しました。

時間前に全員集合したので、午後3時半集合を約してそれぞれ入館。

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日本最高峰の美術展と言われる「院展」です、今年の出品数は同人32点入選者出品数270点の合計302点です。

入ってすぐに内閣総理大臣賞、文部科学大臣賞、日本美術院賞の作品が目に入ってきました。

初めから圧倒的な迫力で見る者を迎えてくれました。

素人ながらただただ見入ってしまう、本当に言葉が出てきません。

その後1時間半の時間が本当に短く感じられ、なんとも言えない「しあわせ感」に包まれた素晴らしい時を過ごすことができました。

各人がそれぞれ勝手に、好きな絵画の前にじっと佇む、一体今の日本画という、枠組みとはなんだろうか?

ただ画材の制約だけと言うことは?

一緒に行ったある人が言っていた、「全ての芸術の原点は絵画だ!!!」と言う言葉は至言だと仲間の誰かが言った。

我が仲間は素晴らしい、ただただ恐れ入った次第である。

私が会場を巡り歩いて一番感じたことは、何だかよく判らないが、今まで感じたことのない、若やいで明るくてこの場にいるだけで、心楽しいしあわせ感を隅々に感じることが出来たことでした。

さて鑑賞を充分に楽しんで、会場の出口に3時半集合、公園の中をぶらぶら歩きをしながら「反省会」の会場がある上野駅に向かう。

帰りにまた「芸祭」でダンスをしていたので写真を撮りながら、仲間の姿もパチリしかし何時来ても、お祭り騒ぎのような賑わいには、人の多さには驚きである。

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反省会での宴の様子を撮って掲載します、いつもの事ながらこんなに素晴らしい笑顔を家で見せているのだろうか?

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こうしてまだ明るい間にそれぞれの巣に帰って行きました。

来年もまた「院展」で会えますように心から願いつつ・・・

武蔵野国 素浪人。

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よし笛コンサート(H25.3.17)に仲間が出演

平成25年3月17日(日)に京都アスニ―文化祭があり、ここに増戸、位田両氏が出演しました。午後1時からの開演に家から自転車に乗って千本丸太町を西へ数100メートルほど行ったところにある京都アスニ―に行きました。

 定刻午後1時から2時までの1時間によし笛コンサートは開催されました。

 

呉山平煥先生のご挨拶

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プログラムは

 京都アスニ―講座の受講生により

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透明感のあるよし笛の旋律が会場内に流れました。

 

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 春への憧れ(モーツアルト)

 浜辺の歌(藤沢市のナリタタメゾウ氏)

 月の砂漠(浜辺の砂浜をモチーフとしているそうです)

 小さな木の美(ビゼー)

  山科アスニ―講座受講生による(増戸、位田両氏が参加)

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  早春賦

  花

  荒城の月

 みかんの花咲く丘

かわせみのメンバーの方たち

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 よし笛アンサンブル かわせみの皆さん)

  空から降ってきた少女

  シチリア―ナ(2声)

  コンドルは飛んでいく

  高校3年生

  最後は全員でシルクロードのテーマ

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 あっという間の1時間でした。

 

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「講談」

みなさん「講談」と聞いて何を連想しますか?

私たちが子供の頃、まだテレビが無かった時です、近所にいた親父が風呂屋の帰りなどにうなっていたり、ラジオから広沢虎造がうなっていたのは、「浪曲・浪花節」でした。

講談と言えば「一龍斎なんとか」とか「旭堂なんとか」と言う芸名の人たちです。

そうなんです仲間の1人が、このカビが生えたように思っていた、古典芸能という素晴らしい芸能に65歳から挑戦して、花のお江戸のど真ん中「日本橋亭」に登場しました。

11月25日(日)仲間の5人が、この貴重な「講談・金色夜叉」の一説を聞きに集まりました。

素人ながら身贔屓なしに素晴らしい、あまり枝葉末節には拘らずに、語る姿は堂々としていて、人生の重みさえ感じた次第です(少し褒めすぎかな?)。

話を聞いた5人とも、そのあと近くのカフェで、1時間ばかり話に興じたのですが、誰もが皆大いに感動したように思います。

みなさん、まだまだこれから大いに新しいことに、チャレンジしてください。

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武蔵野国 素浪人 記す。

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武蔵野国たより!

我が住む武蔵野国には、今まで建造物の「国宝」がありませんでした。

残念にも日本国でありながら、歴史・文化の果つる僻地のようでありました。

その地に初めて、「国宝指定」が文化庁から答申されました。

それは「妻沼聖天」と言って、平成の大合併で埼玉県熊谷市に統合されました。

それ以前は妻沼町と言って、「利根川」のすぐ近くで向こう岸は群馬県です。

「妻沼聖天」は18世紀半ばに創建されたようで、「ミニ東照宮」といっていいような建物です。

権現造りで「日光東照宮」と同じような、豪華絢爛な彫刻が見るものを圧倒します。

好き嫌いは別にして、極彩色の彫刻一度はと思わせます。

奈良の仏様たちも、建造された時は、極彩色に彩色されていたようですから、先入観を持たずに見ていると、勿論この建物は大修理されて、昨年拝観できるようになったばかりです。

写真を添付いたしますので、ゆっくり見てください。

いつものように写真の上でクリックすると拡大した写真を見ることが出来ます。

武蔵野国住人 宇田。

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下鴨だより、一日順延の葵祭(H24.5.16)

平成24年5月16日(水)一日天候不順のため順延された葵祭りが快晴の下、

挙行されました。

 午前10時30分に京都御苑を出発した葵祭の行列(路頭の儀)は下鴨神社に

午前11時45分頃に到着し、順次参道を北へ通って赤い鳥居から楼門に入り

ました。ここでは社頭の儀が挙行されました。

「 路頭の儀」

 束帯姿の近衛使代や十二単の斎王代など、王朝絵巻さながらの葵祭の行列

が、都大路をすすむ道中を路頭の儀という。

 下鴨神社と上賀茂神社で行われる社頭の儀を行うためのプロセスである。

  両神社に、近衛使代が御幣物を供え、御祭文を奏上する社頭の儀に向かう

道のりである路頭の儀は、斎王代やさまざまな所役の衣装が見もの。京都の

伝統産業に支えられ、職人技に磨かれた伝統が息づいている。

 その典雅な行列は遠く平安時代から人々の憧れであり、今も葵祭のハイライト。

 行列は近衛使代(勅使代)を中心とした本列と、斎王代に従う斎王代列に

分かれ、本列を男列、斎王代列は女人列ともいえよう。

 総勢500余名、馬36頭、牛4頭、牛車2台、そして斎王代の乗る腰輿

(およよ)1台からなる行列はおよそ1キロメートル。全行程8キロメートルの

道のりを大宮人が練り歩く。

 私は参道で路頭の儀の行列を待ち、見学しました。

行列は肝煎(きもいり)を先頭に乗尻(のりじり)(上賀茂神社で社頭の儀のあと

一の鳥居から二の鳥居に向けて騎乗して馬を走らせます。市君の息子さんが

乗り手の一人として参加されていました)

 検非違使志、検非違使尉、山城使、舞人、陪従(雅楽を奏する武官)、

近衛使代(行列の最高位の人で四位近衛中将がこれを勤める)

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カラフルな衣装束帯を身につけて馬上の人が続きます。

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 牛車(藤、紅梅、白梅、杜若(かきつばた)などの造花を美しく飾る

 勅使(又は近衛使代)は馬で行くので車はいらないが、行粧を華やか

にするために曳きだされるのだそうです。

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近衛使代(行列最高位)銀面をかぶった馬に騎乗。

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風流傘

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続いて斎王代列

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騎女(むなのりおんな)斎王付の巫子(みかんこ)

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そのあと斎王代の牛車などが続きました。

 これらの行列は赤い一の鳥居を通り楼門の中に入って社頭の儀を

行いました。

 私は午後から上賀茂神社にて行われる社頭の儀を見るために、一旦

家に戻って昼食を摂取したあと、家内と一緒に家を出て上賀茂神社に

出向きました。

 上賀茂神社で社頭の儀の受付を済ませた後、時間があったので近くの

太田神社にでかけました。ここでは杜若(かきつばた)が満開で見事な

花を咲かせていました。

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 上賀茂神社に戻り、社頭の儀が挙行されるのを待ちました。

 行列が到着する前に二の鳥居の内側の広場が竹ほうきで綺麗に

されました。

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清掃する役のの人たち10名程が広場を行ったり来たりしました。

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 ここは斎王代が座って社頭の儀を観覧する場です。

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ここで、市君が衣冠単(いかんひとえ)( 以下市君より)

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今回は奉行属という役柄で、奉行の補佐役です。

京都御苑では、建礼門の南に設けられた見所で、奉行と共に行列の出発

を見届けました。それが終わると、タクシーで下鴨神社に先回りして

行列の到着を待ちます。

社頭の儀の準備が整ったところで、勅使を南の鳥居のところへお迎え

に行きます。

上賀茂神社でも奉行の命を受け、お勅使様を迎えに行く役です。

衣装(装束)は、束帯ではなく、衣冠単(いかんひとえ)という物です。

赤の単(ひとえ)の上に花田色(青系統の色、三輪さんの写真を参照)

の上着を着しています。束帯は上位の人の装束で、袴も違い、踞という

布を引きずっているので区別できます。葵祭では、勅使や宮司が着して

いるものが束帯です。

市 忠顕

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を身につけて登場、広場に進み出て、社に一礼のあと、向こうに見える小屋の

中に入っていきました。

 

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 やがて、下鴨神社を出た約500余名の路頭の儀の行列も上賀茂神社に到着し、

順次2の鳥居に入って広場の中程で本殿に向かって一礼する儀式を済ませて

いきました。

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斎王代列も到着し、御輿(およよ)を下りて、徒歩で二の鳥居に入り本殿に一礼

をした後、所定の場所にそれぞれ座りました。

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 斎王代も所定の位置に着座しました。

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 この後、衣冠単姿の市君は近衛使代を迎えるために席を立ち、

所定の場に向かいました。

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 今年の第57代斎王代を務めた家族の方々の席も横にしつらえて

ありました。

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斎王代を真ん中に路頭の儀を勤めた女官、童女、騎女、内侍、女別当、

采女などの方々居並びます。

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勅使舞人陪従の列の皆さんが二の鳥居をくぐり広場の真ん中辺りで一礼し、

所定の場所につきます。

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社頭の儀の中心人物である近衛使代が衣装束帯姿で入場しました。

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 社頭の儀に先立ち、式に立ち会う者はそれぞれお祓いを受けます。

 

、勅使御祭文を読み上げる前に御幣物を受け、橋殿北の案上に奉奠する。

近衛使代はこのあと橋殿に上がり、御祭文を読み上げます。

 宮司は祭文と御幣物を本殿内陣に納めます。このあと御神意を勅使に

伝えるべく宮司は岩上に蹲踞し返祝詞を奏上する。後、交互に二度拍手

(打ち交ぜ四声と称す)

この作法により本年も天皇陛下の御祈願が神に伝わったことを意味する。

 神のみしるしとして勅使に神禄(葵)を授ける

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「東游」又は「東舞」

御神慮を和め奉る為、舞人は駿河舞と求子舞を舞い、陪従は歌を唄える。

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このあと 橋殿の周りを三度2頭のの馬が回ります。

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これらの儀式をしている間に、斎王代以下の女人は走馬が行われる一の

鳥居と2の鳥居の間にある観覧する場所に移動。

 前記の儀式が終わって馬場には馬が引き出され、走馬の儀式が行われ

ました。

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夕闇せまる

一の鳥居前で三回程引き回された馬が一の鳥居ら二の鳥居に向って

約200mほどの間を馬が勢いよく走る姿は迫力がありました。

この儀式には市君の息子さんが参加し、馬で走ったようです。

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合計8頭の馬が馬場を疾走しました。

私は午後6時前、夕暮れせまる上賀茂神社を後にしました。

  文責 三輪

 

 

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終い天神とアスニ―よし笛クリスマスコンサート(H23.12.25(日))

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平成23年も後7日となりました。12月25日は今年最後の北野神社で開催される終い天神です。午前11時30分頃、家内と自転車で家を出ました。いつも通り葵橋を渡り、寺町から相国寺を抜けて西進し、堀川通りを横断、上七軒から北野神社の東門に到着自転車を降りて、ここから中に入りました。入口付近は露天の店が出ており人で一杯です。

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手を洗って清めます。

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境内には梅の蕾が小さく枝についています。

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空はあくまで青く晴れていましたが、クリスマス寒波が日本列島を覆いかぶさってきているので空気は非常に冷たい。

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本殿裏の小さな社に参拝します。

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本殿は最近屋根が修復されて見事な姿を見せています。

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本殿は大勢の人が並んでお参りの順番を待っていました。我々は横の空いている所から

参拝しました。

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本殿の参拝を終わり、すぐそばにある灯篭の所にやってきました。

 この灯篭の土台にある大黒様の二つの鼻の穴に小石を上手く落ちないように乗せることが出来て、尚且つこの小石を財布の中に忍ばせて置くと小金が貯まるとの言い伝えがあります。

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このように今日は上手く乗せることができました。穴が斜めになっており、滑ってなかなか上手く乗りません。

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我々の様子を見ていた人も挑戦。

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今度は境内に鎮座する二頭の牛の像を手でなでてお祈りします。

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境内の隅にある小さな社は合格祈願の絵馬で一杯です。北野神社(菅原道実公が祀られている)は勉強の神様として有名

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南の入口に続く参道は露天の店が出ており、人人人

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お正月の準備もされており入口には大きな竜の絵馬が架けられています。これは洛北高校二回卒の三輪晃久氏によって描かれていました。

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この後北野神社を出た後、家内と別れて私は午後1時30分開場、午後2時から開演されるもうひとつのイベント会場へ移動しました。

 京都アスニ―4Fホールで開かれるクリスマスコンサートは増戸君がよし笛奏者の一人として出演いたします。

 この演奏会には3711会の仲間である位田君(同伴)、中山君らも聴衆として来ておりました。

アスニ―アトリエやましな「よし笛」受講者の一員として全員での吹奏に参加しています。

 よし笛は琵琶湖の葦(よし)から作られます。この小さな笛から出る音色は素晴らしい。

第1部交響詩「フィンランディア」より

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シューベルトの子守歌、フリースの子守歌を吹奏

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鴨川を走る会「京都走ろう会」で走る人も出演しておりました。

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山科ホーリーブス

     野に咲く花のように、 みかんの花咲く丘を吹奏

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全員で 川のほとりのこもりうた、生きている琵琶湖、琵琶湖周航歌を吹奏

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  約1時間の演奏が終わり、15分ほど休憩となりました。

午後3時10分より第2部に入りました。

演奏者は浦田真智さん(フルート)、呉山平かん氏(オーボエ)、仙崎和男氏(ファゴット)

の三人が見事なプロの演奏を聴かせてくれました。

 クワンツのトリオソナタより第1楽章、 

 バッハのコラール「主よ人の望みの喜びよ」

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よし笛の講師でもある呉山氏がよし笛の吹奏を浦田さんの息子さんの打楽器と

ともに吹奏  奉祝の舞「皿踊りの曲」

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山科よし笛アンサンブル・音の葉

 翼をください  心の窓にともし灯を 月の砂漠 浜辺の歌

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京都よし笛アンサンブル・かわせみのみなさん

冬の星座、ラ・ゴロンドリーナ コンドルは飛んで行く ホルディリディア

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最後に全員でクリスマスソングを吹奏

 赤鼻のトナカイ あら野のはてに もろびとこぞりて きよしこの夜

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ファゴットの仙崎氏も

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フルートの浦田さんとオーボエの呉山氏も

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増戸君もサンタの帽子をかぶって吹奏

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第1部と第2部合わせて約2時間はあっという間に過ぎてしまいました。

 よし笛の音色は素晴らしい。

 文責 三輪

 

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芸術の秋。美術館のはしご(天晴れの会流れ)

幹事の宇田君が、ちょっと抜けて代わりに吉田君ががんばって企画してくれました。11月17日午後のひとときでした。

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前回は、浅草の神谷バーでさんざん盛り上がり、最後は終着駅近くまで乗り過ごした吉田君が反省の意味を込めて、今回は格調高く、東京都内の美術館めぐりです。

前々回は初参加を表明しながら、見事失念し、みなさんにご迷惑をかけた永田も遂に、吉田君の度重なる勧誘(というより強要に近いか。いやあ浅草から深夜電話がかかってきて酔っ払いの相手するの大変だった)により、この天晴れの会(流れ)に初参加です。

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格調が高すぎたのか、会の開催が連続していたからか、参加者は、私(永田)を入れて僅か4名(吉田、笹井、勝部、永田)。まずは、銀座メルサの画廊で行われた、「国際水墨芸術大展2011」です。

水墨というのだから、墨だけかと思ったら大間違い。色彩豊かな日本画のような画や前衛的な変わった素材を使った画が展示されていて、素人の私には大変驚きでした。吉田夫人は、先生より偉い評議委員で、色々と教えていただきました。 記念に写真を一枚。

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ツーショットで納まったのは何年ぶりかという奥様を会場に残して、我々は、次の会場に向かいます。今度は丸の内の三菱一号館美術館、だしものは「ロートレック展」です。

昔、教科書で見たロートレックの名作ポスターを次々に実物で見て、思わぬところで旧友に会ったかのような暖かい気持ちになりました。

芸術鑑賞はこれで終わりではありません。実は最初の企画は、これ2つだったのですが、天晴れの会は歩く会(歩き方にも色々あるようで時々トラブります)だという定義にこだわって、さらに足を伸ばして、国立近代美術館まで行くことになっています。

S_pb174364_3皇居を抜けます。銀杏の見ごろにはまだ早いようでした。皇居の内堀を歩きますが、最近のお堀はアスレティッククラブ化しておりまして、ランニングする人がひきもきりません。のんびり歩く人にとってはとても目障りです。

近代美術館のだしものは「ぬぐ芸術」でした。え、これ何、何と日本画家の裸体画の特集展です。しかし、吉田君も面白い美術展を知っているなあ。まあ一人だったらこっぱずしくって、とても券を買って見る勇気はありませんが、群集心理というか、年をとって羞恥心がなくなったというか、平気でした。

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いや、結構面白かったですよ。私は、小出楢重の豊満な裸体画が好きなんですが、これをゆっくり見られたし、萬(よろず)鉄五郎が、あんな抽象画を描くとは知りませんでした(ずーっと満鉄、五郎と呼んでいたことは秘密です)。

歩く距離は、ほんのわずかでしたが、美術展のはしご3件は、やはり少しやりすぎでした。これは疲れが残りそうです。竹橋の地下の「ニュートーキョー」でお約束の一献です。いやいや、みなさんが一生懸命働いているときに、こういう時間を持てるのは、最高の幸せです。

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それではまたどこかでお会い出来ることを楽しみに。

 

(文責 永田)

 

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日展ー「時を超えて・M氏の場合」

今日、国立新美術館で「三輪さん」にお会いすることが出来ました。

しかし「若い女性のモデルが後ろに立ち、私が前に座ってポーズ」の作品ではなく、昨年ブログで見せていただいた彫像でしたよ。

「今年の10月15日までかかって」の作品ならそれは来年でしょう。

先日三輪さんのブログでの案内に、今回のを「古代ギリシャの哲人像」とコメント欄に勝手なことを書きましたが、作者小野啓亘先生の付けられた題が何と「時を超えてーM氏の場合」!

説いても説いてもまわりに人が寄って来ず、半ばあきらめ顔の哲人「ミワソクラテス」。
椅子でもあればじっくりご高説を聴かせてもらったのに、、

会場の過半数が裸婦像(私にはそう見えた、、)のなかで、M氏は異彩を放っておりました。
芸術で一番大切な「離れがたいもの」を持っております、自分チに置きたくはないが、、、

「あの作品写真を撮らせて」と、部屋の隅で監視しているお姉さんに頼んだら、「許可を貰ってきてください!」
「これ1枚だけだから、友人だから」「ユウジンでもだめです!」
さすが国立、ユウジの機密はジャジャ漏れなのに。
仕方なく一方向のみの350円だか450円の写真購入、右斜めからが好きだったのに、、

この美術館は本来持つべき広さがなく、無理があり好きではない。
苦心が見える設計は故黒川紀章氏
(若尾文子の夫、どうでもいいが。
彼、前回の都知事選立候補でのあのバカげた選挙パフォーマンスはなんだったのか?)

   「新しき ミュ−ジアムに染む 小春かな 」    惇三 

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京一中卒村山槐多(大3卒)

毎日新聞H21.7.19付に村山槐多氏(京一中大正3年卒)がとりあげられました。

 今年で没後90年となります。

 村山槐多氏は昨年夏NHKBS放送でも取り上げられましたが、今回毎日新聞で掲載されました記事に洛北高校同窓会に保存している資料を提供しましたので報告します。

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 村山槐多氏(1896年生~1919年寂)

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 H21719_003村山槐多は1896年、父谷助と母たまの長男として横浜市で生まれた。谷助は尋常高等学校、中学校の教員、槐多が4歳の時、京都に居を構えるまでは引越しが多かった。18歳まで暮らした京都が「槐多成長の地」ととらえていいだろう。

  草野心平著「村山槐多」などによると、幼いころから絵を描くことが大好きで、谷助が買い与えた色鉛筆をいつも使っていたという。

 もっとも、後に画家となるのだから、驚く話ではない。知りたいのは、後に「火だるま」と称される情熱が京都でどのように醸成されたのか、である。

 長く住んだのは、京都御所に近い上京区寺町今出川。生家は既にないので、槐多の母校、京都府立洛北高校を訪ねた。当時の名前は京都府立第一中学校(京一中)。ノーベル賞受賞者の湯川秀樹と朝永振一郎、仏文学者の桑原武夫や社会人類学者の今西錦司らを輩出した。1870年創立の名門校だ。

 槐多自身が書いたノートや絵は残っていないが、友人と共に回覧雑誌を発行し、たくさんの詩や短歌、小説、戯曲、水彩画などを載せたことが分かっている。学校での槐多の様子をしのばせる資料を、京一中洛北高校同窓会の常任理事、三輪新造さんが用意してくれていた。同窓会「あかね」の1972年2月号。槐多の同級生が「鬼才・村山槐多をめぐって」と題しておこなった座談会の抄録だ。

 学科成績は優秀なのに、操行(生活態度)が丙で総合点は3等。そのため好きな学科以外はやらなくなり、いたずらもひどくなった。前の席の同級生が新調の服を着てきたら、まるでキャンバスにデッサンでもするように、彼の服に白いチョークで絵を描きなぐった・・・。奔放な性格をうかがわせる数々のエピソードが披露されている。

 「当時の京一中は、阪神地区や北陸からもエリートが集まっていました。そんな中で槐多のような男がいたのは面白いですね」。三輪さんもほほえむ。

 画才も既に発揮していたようだ。「学友会誌」1913年12月号には、学校行事として開かれた絵画展の短評が載っていた。学生向けの評だから、褒め言葉は随所にある。しかし、「信州の村」「農家の横」など5点を出品した槐多への評は、とびきり長く、熱がこもっている。

 H21719_004 ・・・・・・とにかく画は少しく画けると(中略)印刷物の如き感じを起す様になるものなるが、氏の作はこれに反し誠によく自己の感じを現はす点に於て傑出せり 然れども未だ完全ならず 将来の発展を望むものなり

 実物・写真共に残っていないのが実に残念だが、槐多の非凡な才能に気付いた評者の驚きが伝わってくる。前回紹介した詩「4月短章」は17歳のときの作品だ。

 だが何より、京一中時代の有名なエピソードは「恋」であろう。一学年下の美少年、稲生キヨシへの片思いだ。 文と写真 岸 洋子

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 以上 毎日新聞(平成21年7月19日付)より

 (文責 三輪 新造)

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宴のあと 

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撮影 CHON

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