日本橋から北千住宿へ!!!
天晴れ会5月例会は、江戸からの五街道の一つ「日光街道」を辿りました。
はじめに目に付いたのは、日本橋らしい現代版「からくり時計」です。
日本橋から先ず初めに「水天宮」へ、旅の無事を祈ってお参りしました。
不思議なことに人が誰も居ない、警備員のおじさんが1人だけ、なんだかおかしいなぁと思いつつ、とりあえずお参りを済ませた。
安産の神様にお参りして、ご利益があるかどうかなんて細かいことには頓着しない、この大らかさが(大雑把)取柄と勝手に決める。
少し歩き始めると、あれっ 又「水天宮」があったこちらは人がお参りしている。
なんだ今、新しく立替のために、こちらに仮宿になっているようだ、道理で誰も居ない、神様の不在のところにお参りしてきたが、まぁいいだろう?
次に目に付いたのは、役者の幟旗、ここは浜町「明治座」、歌舞伎や氷川清の公演の案内も出ていたが、我々には用がない、先を急ごう。
道に幟が沢山立っていた、「薬研掘不動山」小さいお寺だが左手の庭に回ってみると、この寺の由来が書かれていた。
ここは「講談発祥の地」、はじめに太平記が読まれたと書かれていた。
我が友吉田さんに聞くが、知らなかったとのこと、色々歩いてみて始めて知ることの何と多いことか、「歩きの効用」を実感した次第。
すぐそばに4月に歩いた「神田川」に出る、川船が舫ってある、まもなく川遊びのシーズンを迎える準備かな?
さて時間は11時を過ぎたので、「昼食」の場所探しに取り掛かる。
8人も居ると、一度に食事を取れるところは限られる。
過去の経験から11時半までに、場所を確保しなければいけない。
見つけた「定食屋」8人中7人が「しまほっけ定食」、大変美味しく頂きました。
今回は「浅草」を飛ばして、「かっぱ橋」の道具屋街を見て歩く。
外国人観光客も多いと聞く町、一体どれくらいの店があるかは知らないが、とにかく無いものない、と断言できる品揃えは間違いなし。
途中に何度か、台東区の可愛いレトロなバスが走っているのに出合った。
さて次は本日のメイン「吉原」「山谷」の町に入りました。
「吉原神社」には江戸時代から明治・大正・昭和20年代・昭和33年など、それぞれの時代の町の地図が掲げられていました。
「吉原大門」の跡には簡単な表示があるばかり。
この隣町が「山谷」です、今は昔、その面影は微かになんだかあるような無いような、感じる人には感じるという程度です。
昔のドヤが、最近外国人バックパッカーの宿として、改装されているところもあるようです。
次に写真を見てください、何と立派な「天麩羅屋」この建物を見るだけでも、一見の価値あり、と言えるでしょう。
次に行ったところは、江戸時代の刑場だった「小塚原」です、小説や歴史書などで頻繁に出てくるこの地は、今は電車がすぐ隣を走り、前の国道4号線が自動車の排ガスにまみれている状況です。
この地に安政の大獄や幕末の志士などが、眠っています。
「吉田松陰」「梅田雲浜」その他多くの方々が葬られています、合掌。
このすぐ先に「スサノオ神社」の森が茂っています。
ここに松尾芭蕉「奥の細道」への出発に際した、「矢立初めの句」が掲げられていました。
現在の「北千住」は鉄道の要衝地です。
JR常磐線・地下鉄日比谷線・東武電車・つくばエクスプレスなど、が相互乗り入れをしていて、町は大変賑やかです。
下の写真はまるで動物園の子供たちみたいですが、何をしているか判りますか?
そうです飲み屋の看板にくいるように見ています。
どこが良いかこの選択は大変難しいのです?
さて今日の歩きはここまで、後は居酒屋を探すのみ、時刻は3時40分開いている店は何処にありや、嗅覚の発達した誰かが開いている店を見つけてきた。
中に入ると、高齢者の6人ほどのグループがすでに居る。
みんなの顔を見ると、なんとも嬉しい、このために歩いたと顔が語っている。
これから1時間半大談論会、中身は日本の将来、わが身の事、過去の武勇伝、録音しておけばと思える話が多数出てきたが、よく考えるととても人様に聞いていただくようなことではなかった。
でもでもとても楽しく過ごせたことに感謝・感謝・感謝、この集まりが何時まで続くかは分からないが、可能な限り続けて行きたいものだ。
武蔵野国 素浪人。
| 固定リンク
| コメント (3)
| トラックバック (0)
最近のコメント