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母校の校風、校歌が生まれたいきさつ

青柳校長が洛北高校創成期のころについて書かれている資料をみつけましたので、

ここにご披露したいと思います。

 洛北高校の校風や、校歌の詩が吉川幸次郎氏になったいきさつ、作曲が芥川也寸志氏になったいきさつなど、

以下全文

洛北ことはじめ 青柳英夫(初代洛北高校長)=あかね記念号(8号)に掲載

一中との関係

 昭和25年の初夏の夜、故荒木益次郎事務長の仲介で、私は、旧京一中同窓会の故本永七三郎(明38卒)、故山田啓之助(大4卒)、故松井治二(大8卒)の三領袖と、河原町今出川の清洲旅館の一室で晩餐を共にした。

 三氏のいわれる趣意は、「母校を奪われた我々京都一中卒業生にとっては、待望の洛北高校復元が実現した訳だが、巷説によれば校長は、旧一中の伝統を継承する意図は無く、全く新規に独立独歩、洛北高校を経営する意向であるように聞くが、真意は果たして如何ということであった。私は「巷説はある意味では本当である。男女共学制、通学地域制、普通科商業科総合制、そのいずれをとってみても京一中が経験したことのない全く新しい戦後の構造であり、当然新しい皮袋には新しい酒が盛らなければならない。又洛北高校生徒のなかには、旧制京都一中の最後の入学生が多数混じってはいるが、同時にまた当初他の旧制中学校や旧制高等女学校に入学した経歴の男女の生徒たちも決して少なくはない。

 この寄り合い世帯に、ただ復活した校舎が旧一中の建物であるというだけの理由で、我々は一中の継承者である、と呼号することは決して適当ではない。むしろそれは、新しい格好を建設しようとする洛北高一回生の自主的努力を削ぐことになると思う。従って私は、生徒に、如何なる伝統にも習慣にも囚われず、君達自身の創意と工夫によって学校を築くようにと要請している。このことが巷説となって三先輩の耳に入ったことと思う。」と説明した。

「しかし私の見るところによれば、一中77年の輝かしい歴史と校風とが、無言のうちに現在の洛北高校生徒のひそかな誇りとなっていることは、なんといっても歴然たるものがある。伝統というものはそういうものではなかろうか。私は、洛北高の生徒たちに寄り合い世帯の雑然たる気分が消えて、一校の生徒としての融和感の生まれる時期を見計らって、

更に京一中の遺風の顕彰に努めたいと思う。」旨の陳述をしたことであった。

 キャリアに乏しい38歳の私としては、とても後年になっていまここに文字で書いているような具合には、すらすらと意を尽くせなかったかと思うが、三先輩は快く微意を汲んでいただき「よく判った。校長がそういう考えであるならば、我々としては、旧京一中同窓会の総力を挙げて洛北高校の発展のために後援したいと思う。」とのことであった。

 この晩の会合が、昭和23年4月から25年3月までの2ヵ年の中断期間(新制中学転用)をはさんで、それ以前に存在した京都府立京都第一中学校と、それ以後に生まれた京都府立洛北高校との二つの学校が結び付いた機縁であり、今日の京一中洛北高校同窓会成立の素地でもあった。いずれ埋没してしまう校史の一こまであると思っていた訳ではあるが、偶々ここに活字としてとどめることができた。

  校歌の制定

 “♪ 比叡の峰に茜さす”の校歌が京一中そのものであったことは、先輩諸兄のよくご承知の通りである。洛北の生徒のためにもそのような歌が欲しいと思って、時の(昭和28年)PTA会長鰺坂二夫京大教育学部教授にご相談した。遅すぎるくらいだ早速作ろうじゃないか、との賛同を得て、当時子息(R4)が本校に在学中であった吉川幸次郎京大文学部教授に作詞をお願いすることにした。

 吉川幸次郎、三好達治共著の“新唐詩選”(岩波新書)が文字通り洛陽の紙価を高めていた頃だと記憶する。“私は母校の神戸一中の校歌を作らされたことはあるが、元来詩人という訳でもなし・・・・・”と云われるのを無理にお願いした。

 数ヶ月後、思ったより早く校長室に電話があり、早速北白川のお宅へ参上して頂戴に及んだのが、あの格調高い“♪ 千年の森かげに 一頃(けい)の緑萌え”の歌詞である。

―――――文注) 一頃についてはこの前に取り上げました。――――

作詞ができれば次は作曲の番。

 お願いしたのは、ご承知の通り芥川也寸志氏である。当時日の出の勢いで売り出し中の新進音楽家であったが、私が同氏をと考えたのは別に流行っ子というためだけではなかった。昭和の初期に少年時代を過した殆んどの人と同じように、中学生であった私もまた同氏の亡父芥川龍之介の影響をまともに受けていたし、特に昭和二年の夏、旧制新潟高等学校の講堂で自殺直前の龍之介の最後の講演を聴いている。県立新潟中学校生徒だったのだが、高校の講堂へ不法侵入して“エドガー・アラン・ポーについて”の話を、判る訳もないのに高校生の蔭にかくれて、壁ぎわで聞き耳をたてていた。岡本かの子が“鶴は病みき”に描写している通り、鬼気迫るようなす凄愴な風貌が眼底に残っている。

そんなことからその遺児也寸志氏には、私自身は生まれつきの音痴ではあったが、ひそかに注意を払っていた次第であった。

この売れっ子をやっとつかまえたのが、映画の音楽作曲のために入洛中の木屋町筋の旅宿であった。

“校長先生は、校歌によくある行進曲風の勇ましい曲をのぞまれるのか、それとも卒業してからも台所で赤ん坊を背負って、炊事をしながら口誦むことができるような曲を望まれるのか”と問われたことを覚えている。

これがいまの洛北高校の校歌である。

この文章に関してご意見があれば、下記のコメント欄に書き込んでくださいね。(見ているだけじゃなくて)

                       文責  三輪 新造

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コメント

三輪さん、いろいろ掘り出し物、探す事が上手ですね!
「今は昔」ではないが、今となっては貴重な話を、探し出してきていただき、愉しく読ませて貰いました。青柳先生ではないが、何かの形で記録を残しておかなければ、闇の中に消えていくだけですよね。私も以前は文章を書くということが、なかなか億劫でしたが、最近パソコンのお蔭で文章を書く事に抵抗がなくなり、逆に書く事が愉しくなってきました。このブログを密かに、見ていただいている方も、冷やかし半分でも結構ですから、感想・厭味・反論などなどコメントをよろしくお願いします。

投稿: 宇田 | 2007年6月21日 (木) 21時29分

はじめまして。洛北高校の後輩にあたるものです。先日、同窓会で校歌を久しぶりに歌い、改めてその魅力に気づきました。この記事を拝見して、なるほどと納得しました。芥川也寸志さんの作曲ということしか知らなかったので、そのほかの経緯もよく伝わってくる記事でした。ほかの同窓生にも紹介させていただきます。

投稿: 川島 美生 | 2018年10月12日 (金) 00時31分

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