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下鴨たより(廃村八丁)

平成17年5月21日(土)廃村八丁(北山)に行ってきました
この日は天候にも恵まれ、一日快適に過ごすことができました。
 
 今回は車1台で朝8時前に家を出て、京阪出町柳駅前で中岡君と三好さん(北山荘の
メンバー)を乗せ、8時30分に京都地下鉄北山駅で位田、江崎君を両名を乗せて、
私(三輪)の5名で廃村八丁へ出かけました。
 鷹が峰から京北町経由で山国井戸まで行きました。
 山国井戸は大堰川に小塩川がT字型に合流する地点であります。
井戸から小塩川を遡って馬場谷(東谷)に入り、廃村八丁への登山口まで行きました。
9時50分頃到着
DSC03880 Dsc03881Dsc03882Dsc03884 10時10分に登山口を出発。

 昔の廃村八丁の人々が登って上ったであろう馬場谷の流れを渡って、左の小谷の右岸 沿いの細い道を急登する。そして少し上り、対岸に渡ってスイッチバックする。ここから 峠までの山腹に20数回の屈折が刻まれている。道をひたすら登り歩き、卒塔婆峠には10時55分頃に到着。ムクの大木の下でしばらく休憩をとりました。

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 この卒塔婆峠は大堰川と由良川の分水嶺をなすところである。
峠からは雲が畑の上流にある桟敷ヶ岳(896m)の山並みが見えました。

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峠からは廃村八丁への道からそれて、衣懸山(ソトバ山)806m山頂をめざしました。 途中で北山杉の巨木に出会いました。また岩鏡の群生とその花を楽しみながら、頂上には 11時25分に到着しました。

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 頂上からはノコギリ谷を下り、八丁川との合流点を目ざしました。
急な斜面を下り、川沿いをあっちの岸、こっちの岸と何度も渡りながら進みました。
12時20分頃に合流点に到着し、そこで昼食をとることにしました。
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昼食後は13時30分頃出発し廃村八丁を目ざして八丁川を遡りました。

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14時20分頃に卒塔婆峠から下る道との合流点に到達。廃村八丁に向かいました。
 途中で村の人々が眠っているお墓の前を通過、こんな山奥に眠る人々がどんなに苦労
を重ねて村おこしをし、また眠って行かれたことかを思いました。
14時30分に廃村八丁に到着

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 村跡には、離村後に建てられた大きな小屋や三角屋根の小屋が残っていました。
また有名なあの白壁の土蔵がどうなっているかと思っていましたが、崩れ落ちてしまい、
土蔵跡として残っているだけでした。 DSC03914 土蔵前の広場でしばし休息をとりました。
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15時10分 帰りはばば谷を登り、再びお墓の前を通り、卒塔婆峠を目さしました。
15時55分 卒塔婆峠に到着し、しばし休息を取る。
16時30分 廃村八丁登り口に到着。小休止の後帰路につきました
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帰りは上黒田を通り花背お布施町経由で別所町で喫茶店に立ち寄り、鞍馬を経て 家路につきました。

廃村八丁(現地の看板より)
 八丁山は、明治11年6月最終的に上弓削村と佐々里村との境界が決定するまで
実に600年近い争いの歴史であった。1682年公儀の御留山として立入りが禁じ
られた。元禄十四年(1701年)周山村吉太夫の請負山となり上弓削村から3名と
広河原村から2名が炭焼を職とし1町5反3畝の新畑を開き住居、1743年上弓削
村の請負山となり5戸の者も上弓削村の山番として定住してきたが、明治維新になって
佐々里村から八丁山払下げ願いが出されこれを聞いた上弓削村も直ちに払下げを
嘆願した、山番5戸を味方にした上弓削村領と決め和済が成立した。
 明治33年には博習校の文教場も設けられ8人の児童に先生1人が教鞭をとった。
 昭和8年の冬大雪に遭って食糧が欠乏し病人が出ても医者の使いもなく、さんざんな
目にあった所から村あげて山をあとに平地にさがり、昭和11年に廃村となった。

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